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ひでシスのめもちょ

今度は箱根登山鉄道に乗ってみたいと思っています

吉本隆明「共同幻想論」レジュメ(前 巫女論まで

2012/05/25

吉本隆明共同幻想論」レジュメ(前 巫女論まで

hidesys

共同幻想論とは、幻想としての国家の成立を描いた国家論である。
マルクスの上部構造を共同幻想、フロイトのリビドーを対幻想と言い換えれば、吉本はマルクスフロイトの補完と融合をやってのけた。マルクスの上部・下部構造論は社会分析としては高度だが、人間が本質的に持っている性的要素を軽視している。フロイトは人間の性衝動を鋭く分析しているが、社会領域までリビドー論を無前提に拡張しすぎている。吉本は両者がカテゴリー錯誤を犯さないように整理し、補完、融合する形で自分の共同幻想分析に利用しようとした

国家は幻想の共同体だという考えを、私ははじめにマルクスから知った。国家は国民すべてを足元まで包み込んでいる袋みたいなもので、人間は誰でも袋の外に出ることはできないと思っていた。しかし、こういう国家概念が日本を含むアジア的な特質で、西欧的な概念と全く違うことを知った。人間は社会の中に社会を作りながら実際の生活をやっており、国家は共同の幻想としてこの社会の上にそびえているという西欧的なイメージであった。
国家は共同の幻想である。風俗や宗教や法もまた共同の幻想である。人間が共同の仕組みやシステムを作って、それが守られたり流布されたり慣行となったりしているところでは、どこでも共同の幻想が存在している。また、国家は一定の集団を作っていた人間の観念が、しだいに析離していった共同性である。

人間の様々な考えや、考えに基づく振る舞いや、その成果の内で、どうしても個人に宿る心の動かし方からは理解できないことがたくさん存在している。それはただ、人間の共同の幻想が生み出したものと介するより他に術がないように思われる。
本稿の基本となっているモチーフは2つある。一つは、個々の人間が共同性の場面に登場するときは、それ自体が相対的には独立した観念の世界として扱わなければならないし、また扱いうるということ。もう一つは、個々の人間の観念が圧倒的に優勢な共同観念から強制的に参入され混和してしまうという、我が国に固有な宿業のようにさえ見える精神の幻象は、どう理解されるべきかということ。

文学理論、政治思想、経済学などの個々ばらばらに見えていた問題が、だいたい統一的に見えるようになった。その統一する視点は何かというと、全ては基本的に幻想領域であるということ。そして、どういう軸を持ってくれば全幻想領域の構造を解明する鍵をつかめるか。
共同幻想:国家や法
対幻想:家族論や男女の関係
自己幻想:芸術理論や文学理論、文学分野
これらの軸の内部構造と、表現された構造と、三つの軸の相互関係がどうなっているか。
そして、これらの幻想領域を扱うときは、下部構造、経済的な諸範疇というものはだいたい退けることが出来る。

科学というものは一般的に後戻りすることはありえないが、そういった経済的範疇というものもまた部分的なものにすぎないことが見えていない、ほんとは部分的なものにすぎないのにそれが全体性だと思っているところが一番問題である。たとえばマルクスが、経済的範疇というものは第一次的に重要なものだ、と考えたとき、ほんとうは幻想領域の問題はそういう経済的諸範疇を扱う場合にはだいたい捨象できるという前提があってそう言っている。この経済的あるいは生産的あるいは技術的範疇というものを、人間の全範疇だと誤解しているという思想的な意味での間違いがあるから、未来楽観論みたいなものが出てくる。幻想領域というものは、全く経済範疇と同行するわけではなく、逆行したり、対抗してみたり、また先に進み過ぎてみたりいろいろな仕方ある。そういう問題を全く無視しているとろこが一番の問題である。

共同幻想も人間がこの世界で取りうる態度がつくり出した観念の形態である人間はしばしば自分の存在を圧殺するために、また圧殺されることを知りながら、どうしようもすることのできない必然に促されて様々な負担を作り出すことのできる存在である。共同幻想もまたこの種の負担の一つである。だから人間にとって共同幻想は個体の幻想と逆立する構造を持っている。そして、共同幻想のうち男性または女性としての人間が生み出す幻想をここでは特に対幻想と呼ぶことにした。なお、共同幻想という概念が成り立つのは人間の観念がつくり出した世界をただ本質として対象にする場合においてのみである。
ここで提出したかったのは、人間の生み出す共同幻想の様々な様態が、どのようにして総合的な視野のうちに包括されるかについての新たな方法である。

禁制論

禁制のようなもともと未開の心性に起源を持った概念に、まともな解析を初めて加えた最初の人はフロイトであった。神経症患者がなぜそうするか理由もわからず論理的な糸もないのにある事象に心を迂回させて触れたがらないとすれば、その事象は必ず願望の対象でありながら恐れの対象であるという両価性を持っている。フロイトのタブー論のうち関心が惹かれるのは、近親相姦に対する<性>的な禁制と、王や族長に対する<制度>的な禁制である。何故ならば、これらふたつは前者が<対なる幻想>、後者が<共同なる幻想>に関しているからである。しかしフロイトは、性において心の世界、経験の世界、行為のもたらす結果を混同している。この混同は、心、経験、制度へと引き伸ばされて矛盾を拡大する。たからこそ、自己なる幻想、対なる幻想、共同なる幻想の、異なった次元の世界を前提にする必要がある。
ある事象が禁制の対象であるためには、対象を対象として措定する意識が個体の中になければならない。そして、対象は彼らの意識からはっきりと分離されているはずである。そして、自分にとって<他者>が禁制の対象であったとすれば、この最初の<他者>は<性>的な対象としての異性である。そして、自分にとって禁制の対象が<共同性>であったとすれば、この<共同性>に対する自分は<自己幻想>であるか性的な<対幻想>であるかのいずれかである。
<正常>な個体は大なり小なり、共同の禁制に対して合意させられている。この合意は黙約と呼ばれるものである。ある<幻想>の共同性がある対象を共同に禁制として考えている場合、実はその中の個人は禁制を強制されながらその内部にとどまることを物語っている。

未開の<禁制>を伺うのに一番好都合な資料は、神話と民俗譚である。

1. 村の若者が猟をして山奥へ入って行くと、遥かな岩の上に美しい女がいて、長い黒髪を梳いていた。とうてい人がいるような場所ではなかったので、男は銃を向けて女を撃った。倒れた女のところへ駆け寄ってみると、身の丈が高い女で、髪は丈よりも長かった。証拠にと思って女の髪を少し切って、懐に入れて家路に向かったが、途中で耐えられないほどの眠気を催したので、あたりでうとうととしたら、夢とも現ともわからない内に身の丈の大きい男が現れ、懐から黒髪を取り返して立ち去った。若者は目が覚めた。

心的なリアリティという観点から山人の<恐怖の共同性>を抽出してみれば次の2つに帰する。
一つは、いわゆる<入眠幻覚>である。入眠幻覚は精神病理学上のいわゆる既視体験に似ている。猟師の入眠幻覚が山人に結晶するのは、里人に決して会わない山へ入り、人と言葉をかわしたい誘惑を感じながら獲物も追う生活が日常繰り返されるため、どうしても山に住む人の象が結ばれるからに違いない。このような山人譚が各地に民話として分布するのは、同じような猟師たちの固有な<幻想>が、ある共同性を獲得していくからである。なお、既視は個人の<異常>な幻想だが、入眠幻覚は猟師の繰り返す日常の世界からやって来る<正常>な共同幻想である。この違いは、日常生活に幻想の世界を寄せる大衆の共同の幻想と、非日常なところに幻想の世界を見る個人幻想との逆立を象徴しているように思われる。
もう一つは、<出離>の心の体験ともいうべきものである。村落共同体から離れたものは恐ろしい目に出会いきっと不幸になる。このような、村落共同体から<出離>することのタブーが、この種の山人譚の根に潜む<恐怖の共同性>である。
ただし、これらは時間恐怖と空間恐怖の広がりに本質的に規定されている。禁制が生み出される条件は少なくともふたつある。ひとつは、個体が何らかの入眠状態にあることであり、もうひとつは閉じられな弱小は生活圏にあることである。この条件は共同的な幻想についても変わらない。共同的な幻想も、現実と理念との区別が失われた心の状態で、たやすく共同的な禁制を生み出すことが出来る。そしてこの状態の本当の生み手は、貧弱な共同体そのものである。

憑人論

入眠幻覚はその構造的内層の違いによって類型を取り出すことが出来る。それらは、<始原的なもの>、<他なるもの>、<自同的なるもの>、へ向かう幻想である。これらの入眠幻覚の位相の移り変わりは、共同幻想が個体の幻想へと凝集し逆立してゆく転移の契機を象徴している。いま、任意の著書からこの三つの類型を取り出すことが出来る。

それからまた三四年の後、母と弟二人と茸狩りにいったことがある。遠くから常に見ている小山であったが、山の向こうの谷に暗い寂しい池があって、しばらくその岸へ降りて休んだ。夕日になってから再び茸を探しながら、同じ山を超えてもと登った方の山の口へ来たと思ったら、どんなふうに歩いたものか、またまた同じ淋しい池の岸へ戻ってきてしまったのである。その時もぼんやりとしたような気がしたが、えらい声で母親が怒鳴るのでたちまち普通の心持ちになった。この時の私はもし一人であったら、おそらくはまた一つの神かくしの例を残したことと思っている。(柳田国男「山の人生」『九 神隠しに遭ひ易い気質あるかと思ふ事』)
このもうろう状態の行動は決して<異常>でなければ<病的>でもない。空想の世界に遊ぶことの出来る資質、また幼少期のある時期に誰もが体験できるものである。

私は、もはや、前のように働くことができなかった。洞察の能力(遠観能力)を得たために、普通の集中力や注意力をなくしてしまったのだ。心をひとつの対象に十分あるいは十五分以上留めておくことができなかった。もし、そうすると、緊張は大きくなり、顔は熱くなって紅潮した。汗がとめどなく流れでて、手は悪魔にとりつかれた男のように髪をかきむしっていた。(ペーテル・フルコス『未知の世界』、新町英之訳)
<他なるもの>へ向かう幻覚の構造的な志向は、自己の心的な喪失を相互規定として受け取る。よって、行動体験には現れない。この手記者のESPと称するものが、心的な自己喪失を代償として対象へ移入しきる能力を指すことがよく分かる。この<他なるもの>への志向には、どういう意味でも正常な共同幻想の位相は存在しない。個体に集中した心的な超常があるだけである。

礼拝する時、集会に入る時、読書をする時、あるいは筋肉を休ませる時には常に、突然と例の気分の接近を感じた。(中略)これは、時間、空間、感覚を漸次または急速に消し去りゆくところに存じ、また同状態は自我と称したいものに性質を附するらしい幾多の経験能力を、徐々に、また急速に消し去るところに存じた。これら通常の意識状態が除去されるに伴い、潜在的あるいは根本的意識が、強度を増してきた。ついに一切が消えて、残るものは、純粋な絶対的な抽象的自我のみである。宇宙は、形態を失い、内容を失うた。しかし自我は、活き活きとして躍如し、実在に対して最も辛辣なる疑惑を感じ、その周囲の泡沫を破るがごとく、実在を破ろうと待ち構えて、自我が固着していた。(ジェイムズ『宗教経験の諸相』、比屋根安定訳)
<自同的なるもの>への構造的な志向は自己内の自己に向かうものであり、これも行動体験には現れない。この幻覚の志向性は、いうまでもなく宗教者のものである。なぜなら対象世界が全部幻覚の中で消失しても、自分の自分に対する意識は強固に維持されているからである。

これらの入眠幻覚の構造的な志向を<憑く>という位相から眺めれば、柳田国男の描いた少年時の体験は<行動>に憑くという状態であり、ESPの手記が語るのは他の対象に憑くということであり、ジェイムズの上げている宗教者の体験は自分が拡大された自分に憑くということである。こういう入眠幻覚の体験から異常体験という意味を排除して考えれば、それぞれは常民の共同幻想から巫覡の自己幻想へ、巫覡の自己幻想から宗教者の自己幻想へと移っていく位相を象徴している。「共同幻想」と「自己幻想」が逆立せずに接続している段階から、しだいに逆立して行く変化に対応し、「共同幻想」と「自己幻想」が分離(逆立)して行けばそれらを媒介する巫覡的な人物(憑人)が分離される。

1. ある男が奥山に入って茸を採るため、小屋掛けをして住んでいたが、深夜に遠いところで女の叫び声がした里へ帰ってみると同じ夜の同じ時刻に自分の妹がその息子に殺されていた。
4. 遠野の町に芳公馬鹿という白痴が居た。この男は往来を歩きながら急に立ち止まり、石などを拾って辺りの人家に投げつけて火事だと叫ぶことがあった。こうするとその晩か次の日に物を投げつけられた家は必ず火事になった。
5. 柏崎の孫太郎という男は以前発狂して喪心状態になった男だが、ある日山に入って山神から術を得たあとは、人の心中を読む様になった。その占い法は頼みにくる人と世間話をしているうちに、その人の顔を見ずに心に浮かんだことをいうのだが、当たらずということはなかった。
(「遠野物語」)
<予兆>が次第に具象的な幻想を通って、一人の人物の自己幻覚にまで結晶する有様が解るように引用してみた。予兆譚の特徴は、入眠幻覚に類する心の体験が、ついに誰のものかわからないような話の相対に振り分けられている点である。一般的にいってはっきりと確定された共同幻想は、個々の幻想と逆立する。しかし、これらの話では個体の幻想性と共同の幻想性が逆立する契機を持たないままで接続している特異な位相である。これは、常民の生活の位相を象徴している。もし個体と共同体の幻想性の分離が起こったとき、巫覡的な人物が分離されて個体と共同体の幻想を媒介する専門的な憑人なる。憑人は自身が精神病理学上の<異常>な個体であるとともに、自分の<異常>を自分で統御することで共同体の幻想へ架橋する。ここでは、<憑き>の能力を本当に統御するのは村落の伝承的な共同幻想である。

巫覡論

(芥川『歯車』での、主人公のドッペルゲンガーを見たという友人の話を主人公が思い出すシーン)
個人と個人との心の相互規定性では、一方の個人が自分にとって自分を<他者>におしやることで、他方の個人と関係付けられる。こうして、ある個人は他の個人に<知られる>という水準を獲得する。

ある人が病気で発熱する度に美しい幻を見た。綺麗な道がどこまでも続いている。萱を編んだようなものが道に敷かれており、そこへ子どものときになくなった母が来て二人で道連れになってゆくうちに美しい川があり、輪になった橋がかかっている。母はその輪をくぐって向こう側から手招きするが、自分はどうしてもそこへ行くことができない。そのうち意識を回復した。
一方、『遠野物語拾遺』のこの<離魂譚>には、厳密な意味での<他者>の概念は存在しない。病人が自分の幻覚の中で実在の自分を離れて遊行することだけに本質的な意味が見て取れる。歯車において嗜眠状態で幻覚を辿らせる対象は彼らにとって親しい個人である<他者>であったが、この<離魂譚>が措定する対象は村落共同体の共同幻想そのものである。
この<離魂譚>がやや高度化したのが<いづな使い>である。

村の某が旅人から種狐をもらって、表面は行者となって術を行うと不思議なほどよく当たった。その評判が海岸地方まで広がってあるとし大漁の祈祷を頼まれた。三日三晩祈祷したが魚はさっぱり揚がらなかった。気のあらい漁師たちが、山師行者だと怒って海へ投げ込んだ。やっと海から這い上がった行者は、嫌気が差して種狐を懐へ入れ、白の笠をかぶって川の深みに入った。キツネは苦しがって笠の上に集まるので、笠の紐を解くと笠と一緒に川下へ流れていった。こうしていづなを解いた。

ここでは自分の幻覚を得るための媒介がはっきりと狐として分離されており、決して嗜眠状態で朦朧とした意識が辿る直接的な離魂ではない。
<いづな使い>では、狐が狐であるという認識についてはおそらく自覚的である。<狐>が伝承的に、村落の共同幻想により霊力があると思われたる象徴的な動物の一つだという認識も自覚的である。彼は<狐>という対象に心を移入させることで、実は共同幻想の地上的利害の実態を幻覚出来る能力を獲得しているだけだ。この能力は、心の現象としては個体の了解作用の時間性を村落の共同幻想の時間性を同調させることで獲られている。一般にいって個体が心の了解作用の時間性を変化させるには、何らかの意味で心が異常の状態にならなければいけない。この異常こそ、入眠状態あるいは嗜眠状態という生理的変態である。
<いづな使い>が能力を発揮させるには少なくともふたつの条件が要る。一つは、<狐>が霊性のある動物であるという伝承が流布されていることである。もう一つは、彼らの利害の願望の対象が自分たちの意思や努力ではどうすることもできない<彼岸>にあると信じられていることである。なお、彼らの能力に年限があるのは、<いづな使い>自身が富むことで生活が雑駁になり、雑念が多くて心的な集中や拡散を統御できにくくなためと、村民たちの共同利害の内部で階層的な対立や矛盾が多くなり<いづな>という共同幻想の象徴にすべての村民たちの心を集中させることが難しくなるためである。

山で男二人が宿を取っていたところへ女があらわれ、二人の間に寝る。一人はこんな山奥へ女が来るはずがないって女を斬り殺す。もう一人は俺の女を殺したと喚くがなだめられる。しばらくすると、その女は狐の姿形となった。
この<狐化け>では、<狐>は村落の共同幻想の象徴であり、<女>は男女の対幻想の象徴である。しかし、それらが同時に両方であることはできない。対幻想の象徴は殺されてでしか共同幻想の象徴に転化しないということは、共同幻想に対する対幻想の特異な位相を表している。

巫女論

共同的な幻想が成り立つには、かならず社会的な共同利害が画定されていなければならない。<巫>がすくなくとも共同の幻想に関わるとすれば、<巫>的な人間が成立するためには、必ず共同利害が想定されているはずである。だから、<巫>的な人間が男性女性であるかはたんに<巫>を成立させる共同利害の社会的基盤が男性を主体にする局面か女性を主体にする局面かの違いしか無い。では、<巫女>が<巫女>である本質とは何か。
<巫女>は共同幻想を自分の対なる幻想の対象にできる者の意味を指している。村落の共同幻想が巫女にとっては<性>的な対象なのだ。
フロイト(『続精神分析入門』)によると、<女性>というものは乳幼児期の最初の<性>的な拘束が<同性>(母親)であった者である。よって、最初の<性>的な拘束が同性であった心性が、その拘束から逃れようとするとき、行き着くのは異性としての男性か、男性でも女性でもない架空の対象である。男性にとって女性の志向は少なくとも<性>的な拘束からの逃亡ではないのと対照的である。

村の馬頭観音の象を子供たちが持ち出し、投げたりころばしたりまたがったりして遊んでいた。それを別当が咎めると、すぐにその晩から別当は病気になった。巫女に聞いてみると、せっかく観音様が子供たちと面白く遊んでいるのに、おせっかいしたから気に障ったのだという。そこで、詫び言をしてやっと病気が良くなった。(『遠野物語』)
村のお堂に飾られた神仏の像は、村民の共同幻想の象徴としては<神仏を粗末にしてはならない>という聖なる禁制に他ならない。しかし、巫女の<性>的な心性からは子どもと遊び、子どもが面白がれば神仏の方も面白がるといった<生きた>対幻想の対象として表れる。

問題意識

たとえば、集落が一丸となってエコツーリズムに取り組んでいるとき、エコツーリズムは村落の共同幻想として表れるのではないか。
 →共同幻想論が語れるのはたかだか村落でどのような話がどのように作られどのように語られてきてどのように影響を及ぼしたか、までではないか。という指摘
ある活動が事業として存続しているときには、それは社会的な共同利害はもちろんのこと共同的な幻想としても成り立っていないといけない。経済的諸範疇は数字として計量しやすいが、幻想領域の問題は叙述式論文で表す方が簡潔だと思う。たしかに下部構造は後退しないが、幻想領域は最初に述べたように行き過ぎたり後戻りしたり逆転したりする。よくわからない幻想領域の問題をしっかりと掴むことが出来れば、役に立つと思われる。

吉本隆明共同幻想論」角川文庫、S57